瓦屋根もあったよ

陣屋跡

城もない小藩でも、武家屋敷は家紋入りの本瓦葺

 

 狭山藩陣屋は1616年(天和2年)東除川が狭山池から出

る河口の東北の地域、池尻村に狭山藩の本拠地として設

ける。中央には幅五間の道路が南北に通り、南端には

手門ー表門;堺市北御坊所在ー北端には裏門が設けられ

総廻り804間、51.296坪の規模で、北條氏は河内国と

近江国で一万一千石の大名であった。1869年(明治2年)

第12代藩主氏恭(うじゆき)は、諸藩に先がけて藩籍を奉

還した。  

創建は狭山池の築造以前といわれる格式の高い式内社の狭山神社

 狭山郷の鎮守として崇敬されてきた社格の高い式内社

で、祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞鳴命

(すさのおのみこと)を祀る。創建の年代は不祥である

が、おそらく狭山池の築造以前からあったものと考えら

れる。境内に合祀されている狭山堤神社は狭山池の守護

神として奉祀されたが、明治42年までは現在のさやま

遊園内の池に面した松林の中に鎮座していた。

狭山神社

三都神社

今熊南部丘陵にかけての広い地域に金蔵寺の七堂伽藍と、その鎮守の三都神社

 三都神社の西尾根を通り、天野山から紀州熊野に至る

街道に沿っているので、熊野神社とも呼ばれている。明

治時代の神仏分離までは境内には金蔵寺があり、その

蔵寺の鎮守として三都神社が奉られ、金蔵寺の住職が社

僧として神社を司っていたらしい。一部に藤原時代の瓦

が出土していることから、かなり以前から寺院はあった

と考えられる。現在の社殿附近から南部丘陵にかけての

広大な地域に金蔵寺の七堂伽藍と鎮守の社地があった。

1868年(明治初年)の神仏分離令による廃仏毀釈の風潮

により壊されたらしい。


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