学 園 生 活

   
 堺中入学した時は帽子から靴まで揃いの新調で統一されていましたが、段々と戦争が激しくなり物資も少なくなり服も当布で、靴(編み上げ)も教練意外の時は履かず下駄履きで通しました。私達兄弟3人は何れも堺中学に進み4男の弟も三国ヶ丘高校に進学して、出来の名声を挙げたものです。 第2幼稚園、錦西小学校、府立堺中学校(三国ガ丘高校)と堺市で生まれ育ち、その間兵隊検査は甲種合格、当時理科系の大学生は入隊延期があり其の特典を利用して京都繊維専門学校(京都繊維工芸大学)紡織科に進学しました。30名募集に対して400名位応募でした。但し2期校故京大に1部分流れていました。大学在学中、特別甲種幹部候補生を受験、合格して豊橋予備士官学校の入隊準備中終戦又京都の学校へ再入学した思出があります。大学は1年間全寮制で、寮にありがちな幽霊物語り、寮雨、エスケイプ、ストーム、就寝前の人員点検の誤摩化し等々話題に事かか無い楽しい生活でした。只し朝8時から4時間昼から4時間の夜の5時までの8時間授業、空腹を辛抱しの講議には参りました。我々にも学徒動員が下され鐘淵紡績彦根工場に参加各家に分宿海軍の服地の生産に協力した。その時の担任は森泰次郎先生で後の日本の不動産王(森ビルのオーナ)その人でした。 
                


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