大阪狭山市は古くは高野参りの人達が大阪から堺そして西高野街道を歩いて大草村(いまの大美野附近、中茶屋、下茶屋の地名あり)を過ぎて狭山村から河内長野、紀見峠を越えて高野山にお参りしたと思われます。勿論道中は寂しいもので徒歩しかなかつた時代です。大正の終わり頃から、高野鉄道やバス出来て狭山も次第に発展したのです。これ以上多くの企業を入れず、静かで緑の多い街作りをしたいと思います。大学誘致は歓迎です。そして福祉施設の充実をはかり高齢者に優しい街を作りたいと思います。
今後増々ふえる老齢者のために双方向の簡単な機材を必要な家庭に/配付し緊急の場合に備える。すでに生駒市では双方向のcしてる。 設備のメンテナスの問題を解決しあまり多くの企業を誘致せず静かなたたずまいの学園都市として大学を誘致したいものです。
「私が市長になつたらに戻る」