学徒動員 (4,50年代)

1945年「月月火水木金金」「欲しがりません勝つまでは」なぞと言われていた。

中学2年1学期となった頃「本土決戦」間近といわれ.学徒動員の美名のもと関門

海峡の造船所へ、そこで防空壕掘りの土方仕事、その間何度も空襲に見舞れた。

終戦で学校へ戻リ、食糧不足でグランドを耕し、さつま芋づくりをした。   

 
 [農家の子供の夏休みへ]