特集1:NHKの2014年後期連続テレビ小説「マッサン」の主人公は、大正時代に帝塚山学院小学校で英語を教えていた

本年9月29日から、NHKの2014年後期連続テレビ小説「マッサン」がはじまります。NHKの朝ドラで、初めて外国人女性(シャーロット・ケイト・フォックス)が主人公になるということでも話題になっています。
ドラマは、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝が妻ジェシー・リタ・タケツルと一緒に、日本における本格的ウィスキーづくりのために奮闘した実話を下敷きにしています。また、そのタイトル「マッサン」は、妻リタが夫を呼んだときの愛称からとられています。
ドラマの登場人物の名前は、全員が実名とは別の名前です。竹鶴政孝も亀山政春になっています。ただし、「マッサン」という愛称を生かすために、名前の最初の音は実名に合わせて、「ま」ではじまっています。

モルトウィスキーづくりの実習とリタとの結婚

広島県竹原市の造り酒屋の長男であった竹鶴政孝は大阪高等工業学校(大阪大学工学部の前身)醸造科に入学し、大正5年(1916)に摂津酒造に就職します。摂津酒造は住吉区(旧住吉村)帝塚山の南側に位置する神ノ木にあった酒造所で、常務の岩井喜一郎が考案した岩井式アルコール連続蒸留装置を使って、新式焼酎や酒精含有飲料を製造していました。社長は阿部喜兵衛でした。(4代目阿部喜兵衛は学院の理事長をつとめたことがあります。)

阿部社長は大正7年(1918)に若き竹鶴を、モルト(麦芽)ウィスキーづくりの技術習得のために、スコットランドに派遣します。当時、日本にはまだ本格的なウィスキーをつくるための技術がなかったからです。12月にグラスゴーに到着した竹鶴は、まずグラスゴー大学の応用化学科に入学します。翌年の春から、竹鶴は実習をさせてくれるウィスキー蒸留工場を探し出し、短期の実習をいくつもの工場で経験します。

妻ジェシー・リタ・タケツル

グラスゴー滞在中、竹鶴はある少年に柔術を教えることになり、その家庭カウン家に出入りをはじめます。やがて、彼は長女のジェシー・リタ・カウンと親しくなり、彼女もまた彼に好意を寄せていて、2人は結婚を決意します。しかし、リタの母親たちの反対によって、教会で結婚式を挙げることはできませんでした。そこで、竹鶴政孝とジェシー・リタ・カウンは、大正9年(1920)1月、リタの妹と幼な友達2人の立会いのもとに、結婚登記所で結婚しました。そのあと、竹鶴はリタを伴ってキャンベルタウンに移り、ヘーゼルバーン蒸留所で本格的な実習に励みます。その年の11月、技術習得を終えた竹鶴は、妻と一緒に日本に帰りました。

「ニッカウヰスキー」の誕生

竹鶴が帰国したにもかかわらず、摂津酒造はモルトウィスキーづくりに着手しません。折しも日本経済は第一次世界大戦後の不況の中にありました。商品化に数年を要し、設備投資にも資金を必要とするウィスキーづくりは、会社の経営を危うくしかねないと、摂津酒造の役員会が判断したのでした。

竹鶴は、大正11年(1922)の初めに摂津酒造を退職し、《浪人》生活をはじめます。ところが、翌大正12年(1923)の春に、株式会社寿屋(現サントリー)の経営者鳥井信治郎から竹鶴に声がかかります。モルトウィスキーづくりを計画していた鳥井は、竹鶴に白羽の矢を立てたのでした。竹鶴はその年の6月に寿屋に入社し、ウィスキーづくりの準備を開始します。現在のサントリーの山崎工場を提案したのも、竹鶴であったと言われています。

昭和9年(1934)3月、竹鶴は独立を決意して、寿屋を退職しました。そして、7月に北海道の余市に大日本果汁株式会社を創立しました。会社創立にあたって、帝塚山学院の支援者でもあった千島土地株式会社取締役の芝川又四郎と他の2名が、設備投資に必要な資金を出資しています。6年の歳月を経て、昭和15年(1940)10月、「マッサン」とリタの悲願であった「ニッカウヰスキー」が遂に誕生しました。「ニッカ」とは、社名の「大日本果汁」を「日果」と短縮したものでした。

余談ですが、芝川又四郎が昭和2年(1927)に建てた芝川ビルの地下金庫室から、平成19年(2007)に、戦後間もない頃に製造されたニッカウヰスキー1ダースが発見されました。翌年、千島土地株式会社は竹鶴威ニッカウヰスキー相談役を招いて、「年代もの」のウィスキーの試飲会を開催しました。

「マッサン」の妻リタの人事記録

ドラマでは、竹鶴の母親(泉ピン子)が2人の結婚を認めようとしないことをひとつの軸としています。しかし、実際には、日本へ来て早い時期に、リタは母親に受け容れられたようです。リタは生涯にわたって、夫に寄り添い、夫を支えつづけました。

竹鶴の《浪人》時代の大正11年(1922)、彼女は帝塚山学院小学校の英語の教師になって、家計を助けました。学院には、古い人事記録が残されていて、そこには大正11年(1922)9月20日から13年(1924)12月31日までの「マッサン」の妻の在任記録が記載されています。

学院小学校では大正6年(1917)の開校時から、英国女性による英語の授業がありましたが、リタはリリアン・ローリングス、アリス・リップスカムに次いで3代目の英語教師でした。

リタは昭和36年(1961)1月17日に永眠しました。64年の生涯でした。「竹鶴政孝竹鶴リタ」と刻まれたリタの墓は、余市の工場を見下ろす丘に立っています。

本稿に掲載した竹鶴夫妻およびリタ夫人の写真は、ニッカウヰスキー㈱より提供を受けました。また、本稿を書くうえで、川又一英著の新潮文庫『ヒゲのウヰスキー誕生す』および『千島土地株式会社 設立100周年記念誌』を参考にしました。