帝塚山学院の校名は学院が所在する大阪市住吉区帝塚山の地名に由来すると考えられがちですが、厳密には少し違います。財団法人私立帝塚山学院が文部省から設立の認可を受けたのは大正5年12月21日のことで、その時の本学院の所在地は「大阪府東成郡住吉村大字大帝塚千〇弐拾五番地」でした。大正14年に住吉村が大阪市に編入されて住吉区になり、そのときに「帝塚山」という町名ができます。それ以前には行政区域としての「帝塚山」という地名はありませんでした。大阪市編入以前の住吉村の地図には、「大字大帝塚」や「大字帝塚」の地名があるだけです。
ただし、古くから「帝塚山」と呼ばれる丘陵がありました。丘陵の上には大小二つの前方後円墳(帝塚山古墳で、古代の豪族大伴氏ゆかりの墳墓とされています。二つのうちの一方は大阪市立住吉中学校に敷地となって消失)があり、その塚(古墳)にちなんで帝塚山と呼ばれていたのだと考えられます。少なくとも江戸時代後期にはその丘陵が「帝塚山」と呼ばれていた証拠があります。寛政8年(1796)に描かれた摂津名所図絵に丘陵地帯を住吉の浜の側から見た絵がありますが、帝塚山の丘陵には「てづかやま」の文字が添えられ、また画題として右上に「帝塚山」と書かれています。(帝塚山はもともと手塚山であったものが、明治31年の当地への天皇の行幸を機縁として帝塚山となった、という説があります。しかし、それは上記のことから見て、疑わしい説です。)
このように、「帝塚山」と呼ばれる丘陵の一角に財団法人私立帝塚山学院が設立され、翌大正6年には帝塚山学院小学部(小学校)が開校しますが、実は、当初、候補にあがっていた校名は「帝塚小学校」でした。
財団法人私立帝塚山学院が認可を受けた大正5年12月の半年前の6月24日に、私立小学校設立計画について東成土地建物株式会社取締役の山田市郎兵衛氏と私立桃山中学校校長の浅野勇氏が連名で「小学校ニ関スル協議事項」について作成した覚書が残っています。東成土地建物株式会社とは帝塚山一帯の開発を手がけていた会社です。
その覚書の「三」には「土地建物ハ東成土地建物株式会社ノ規定ニ基ク拾ケ年賦買入方法ニ拠ルカ又ハ所有権ヲ移転シ代金ニ対シ更ニ同会社ヨリ借入ヲナスコトトスルカ当局ノ内意ヲ聴クコト」とあります。このことにより、小学校の敷地が東成土地建物株式会社から購入される予定であることが分かります。「六」には「位置ヲ帝塚山ノ東手ニ選定スルコト」とあります。この「帝塚山」とは丘陵のことです。確かに、小学校の位置は帝塚山丘陵の頂上の東側に位置しています。そして、「七」には「名称ヲ帝塚小学校トスルコト」とあります。「帝塚」とは上に見たように地名です。このことによって、当初は「帝塚山学院小学校」ではなくて、「帝塚小学校」として校名が考えられていたことが分かります。
ところが、約2月後の8月14日に文部省に財団法人設立申請を行ったときには、「私立帝塚山学院設立寄附行為議定書」という文言が用いられています。法人名を狭い区域の地名である「帝塚」としないで、丘陵全体の名称である「帝塚山」とするほうが、響きとイメージの両方からして、《すわり》がよいと判断されたからだと推測されます。法人名が「帝塚山学院」になった以上は、当初考えられていた「帝塚小学校」の校名は消えざるをえず、「帝塚山学院小学校」に落ち着いたのだと考えられます。
往時の帝塚山は、「澄んだ空気、温い陽の光、緩やかな丘の起伏、美しい緑の森」(帝塚山学院発行『帝塚山十年』より)と形容される郊外の景勝の地でした。