特集3:大盛況の「竹鶴政孝とリタ展」4日間の来場者1406人

10月19日(日)から22日(水)の4日間、大阪市住吉区役所主催の「竹鶴政孝とリタ展―ウイスキーにかけた夫婦の夢」が学院住吉校舎「顕彰記念ホール」で開催されました。
また、初日には同校舎高等学校棟のAVホールにおいて、トークイベントと音楽イベントが行われました。住吉区役所の企画が住吉校舎で開催されたのは、リタ竹鶴がかつて2年3ヶ月間、帝塚山学院小学校で英語を教えていたので、その学校で展示会を開きたいという住吉区の要望があったからです。

「平成26年度大阪市住吉区文化観光振興事業」として実施されたこの企画は、NHKが9月29日(月)から放送開始した連続テレビ小説「マッサン」の放送のモデルになっている「日本ウイスキーづくりの父」竹鶴政孝とその妻であるスコットランド人のリタ竹鶴が、4年余り住吉の帝塚山に住んでいたことから立案されました。

「マッサンの留学とリタとの結婚」

旧住吉村の神ノ木のそばにあった摂津酒造の社長2代目阿部喜兵衛の命を受けて、ウイスキーづくりを学ぶためにスコットランドに留学した若き社員竹鶴政孝は、懸命にウイスキーづくりを勉強している過程で、現地グラスゴーの名家の長女のジェシー・リタ・カウンと知り合います。
そして二人はリタの母親の反対を押して、登記所に届け出る方法で結婚します。時に、政孝26歳、リタ24歳でした。留学を終えた竹鶴はリタを伴って、大正9年(1920)11月に住吉に戻ってきます。

そして、現在の帝塚山中1丁目3番地にあった貸し家の洋館に二人は住みます。ところが、せっかくウイスキーづくりを修得してきたのに、摂津酒造は経営上の理由でウイスキーづくりを断念しました。竹鶴はやむなく大正11年に摂津酒造を退職します。
浪人の身となった竹鶴は桃山中学校の化学の先生になり、妻のリタは帝塚山学院小学校で英語を教えます。英国女性に小学校の英語の授業を担当してもらうのは、大正6年に帝塚山学院小学校が創立されたときからの教育方針で、当時としては例のないことでした。リタは英語の教員として3代目でした。

ウィスキーづくりの夢に向かって

こういう時期がありながらも、日本初のウイスキーをつくるという竹鶴政孝とリタの共通の夢が消えることはありませんでした。翌年、寿屋(現サントリー)の鳥井社長から頼まれて、ウイスキーづくりを引き受け、京都と大阪の境にある山崎にウイスキー工場をつくり、国産初のウィスキーをつくります。
10年の契約が終わると、昭和9年に竹鶴は寿屋を退職し、自分の会社でウイスキーをつくることを計画します。そのとき、応援してくれる人たちが現れます。

夫妻が帝塚山に住んでいたときの家主であった実業家芝川又四郎と、山崎に住む証券会社社長の加賀正太郎でした。二人から拠出された10万円ずつの資本金によって、竹鶴は北海道の余市に「大日本果汁株式会社」の工場をつくり、まずはリンゴジュースの製造から事業を始めます。
そして、6年後の昭和15年10月には念願のウイスキーができあがり、大日本果汁の「日」と「果」から「ニッカウヰスキー」と命名されました。ウイスキーづくりに志してから自前のウイスキーを誕生させるまで、実に22年の歩みでした。

列の絶えなかった展示会

展示室は、上に見たような竹鶴夫妻の歩みをパネル展示でたどるコーナーと貴重な資料を展示するコーナーとで構成されました。そこには毎日多数の見学者があり、行列が絶えませんでした。その多くは近隣に居住する人たちと学院卒業生でしたが、中には竹鶴の育った広島県竹原市出身の人、ニッカウヰスキーの元社員、摂津酒造の元社員など多様な人たちの来場がありました。
また、アンケートに記された住まいでは、ほとんどの方が近畿圏でしたが、東京在住、名古屋在住、鹿児島在住の人がそれぞれひとりありました。展示ケースの中には、戦後間もない時期に製造されたニッカウヰスキーが展示されました。それは2007年に芝川ビルで発見された1ダースのうちの1本でした。また、今年の7月に発見された第5回学院小学部卒業アルバム(大正12年3月)の中にリタ竹鶴先生の写真があることが分かり、そのアルバムも展示されました。

立ち見の中のトークイベントと音楽イベント

初日にAVホールで開催されたトークイベントと音楽イベントは、定員100のホールに150人が来場し、立ち見の熱気の中で、まず聞き手、すみよし歴史案内人の会世話人の桝野隆平、語り手、学院職員八木孝昌によるトークイベント「国産ウイスキーの誕生を支えた竹鶴政孝・リタ夫婦」が行われました。
パワーポイントの画像を織り込みながら、住吉時代を中心にした竹鶴夫妻の奮闘の足跡が紹介され、また、トークの途中で摂津酒造社長2代目阿部喜兵衛の孫にあたる4代目阿部喜兵衛さんが紹介されました。
続いて行われた音楽イベントでは、あべのハルカス少年少女合唱団による合唱とラムゼイパイプバンドによるバグパイプの演奏がありました。リタの故郷のスコットランドの民族音楽であるバグパイプの圧倒的な音色は会場を大きな感銘で包みました。

寄せられた感想の数々

  • トーク、すごく面白かったです。
  • バグパイプコンサート、初体験。良かったです。団長のトーク楽しかった。
  • 昔の偉大な人の経歴を知り、また住吉区のことが分かり、心静かなひと時が過ごせました。学院を初めて見学させていただき、校風が少し分かったようです。我が孫を入学させたい気持ちになりました。
  • NHK連ドラが放映されて、タイムリーなイベントと学院100周年が重なって良かった。
  • はるばる名古屋からやって来た甲斐がありました。帝塚山学院と竹鶴は地元出身者の誇りです。
  • 帝塚山学院小学校で英語を教えた竹鶴リタさんの貴重な写真が見られて、とてもうれしいです。
  • 母が大正9年生まれ、学院でお世話になり、マッサンとリタが住んだ洋館は、今も現存する私が幼少期に住んだ家(祖父が建てた)の斜め前。私は入り込んで山田家(編集部注:竹鶴夫妻のあとの入居者)のイギリス式朝食をいただいた記憶があります。母は芝川さんのお嬢さんとも友人で、芝蘭社(編集部注:芝蘭社家政学園。芝川又四郎が芝川ビルに開設した女子の学校で、庄野貞一学院長が学監をつとめた)に通っており、懐かしさで一杯です。

住吉区区役所のホームページの方でもリタ展についての報告が掲載されています。 外部リンクアイコン